日比谷図書文化館 特別展
複製芸術家 小村雪岱 ~装幀と挿絵に見る二つの精華~

複製芸術家 小村雪岱 装幀と挿絵に見る二つの精華のサムネイル画像 大正3年9月、小村雪岱は文豪・泉鏡花による書き下ろし小説単行本『日本橋』で、装幀家としてデビューします。鏡花の小説世界を愛した若き無名の日本画家は、その画号「雪岱」も鏡花によって授けられました。以後、装幀家としてばかりでなく、挿絵画家としても後に「雪岱調」と言われる独自の画風で邦枝完二の新聞連載小説「おせん」などを手がけ、雑誌や新聞などの印刷複製物で活躍します。さらには舞台装置家としての面も見せ、装幀、挿絵、舞台装置と三つの分野で才能をいかんなく発揮しました。

 本展では日本画家という出自を持ちながら、装幀家、挿絵画家という職能で輝きを放つ雪岱の仕事に注目、特に挿絵画家としての仕事については、監修者・真田幸治氏の膨大な個人コレクションから当時の雑誌や新聞を用いてふんだんに紹介します。雑誌のページ全体を使って大胆にレイアウトする様など、印刷物を通した複製芸術家としての雪岱の世界をご堪能ください。

監修:真田 幸治(装幀家、小村雪岱研究家)

※ 本ページのすべての画像の転載・複製を禁止します。

小村雪岱(こむらせったい)プロフィール

本名安並泰助(旧姓小村)。明治20(1887)年、埼玉県川越市生まれ。明治41(1908)年、東京美術学校日本画科選科卒業。大正3(1914)年、泉鏡花『日本橋』(千章館)の装幀を手がけ、以後、鏡花本のほとんどの装幀をまかされる。また、水上瀧太郎や久保田万太郎、里見弴、昭和にはいってからは邦枝完二や長谷川伸、子母澤寛ら、大衆小説作家らの著書の装幀を多く手がけている。挿絵画家としては邦枝完二の新聞連載小説「おせん」や「お伝地獄」で確固たる地位を築き、舞台装置家としては守田勘彌「忠直卿行状記」を嚆矢として、中村歌右衛門や尾上菊五郎の舞台の装置を多く手がけた。昭和15(1940)年歿。昭和17(1942)年、『日本橋檜物町』『雪岱画集』(高見澤木版社)刊行。




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基本情報

会期

2021年1月22日(金曜日)~3月23日(火曜日)
休館日:2月15日(月曜日)、3月15日(月曜日)

開催場所

日比谷図書文化館 1階 特別展示室

開場時間

月曜日~木曜日:午前10時~午後7時
金曜日:午前10時~午後8時
土曜日:午前10時~午後7時
日曜日・祝日:午前10時~午後5時
※ 入室は閉室の30分前まで

主催

千代田区立日比谷図書文化館

展示構成

Ⅰ.【鏡花本】
 画家たちが美麗な装幀をほどこした泉鏡花の著書は〈鏡花本〉と言われ、その意匠面からも高く評価されている。小村雪岱は装幀家デビュー作である『日本橋』以降、ほぼすべての装幀を任されており、また鏡花によって授けられた画号「雪岱」に旧名「小村」を組み合わせることも鏡花から薦められたものだ。鏡花によって生み出された芸術家「小村雪岱」は、まさに鏡花本の申し子と言っていいだろう。

Ⅱ.【新聞連載小説の挿絵】
 この時代、多くの読者の目に触れる新聞連載小説は挿絵画家にとって花形の仕事であった。小村雪岱は里見_の「多情仏心」で新聞連載小説の挿絵を初めて手がけるもその評判は決してよくなかったが、後に独自の画風〈雪岱調〉を獲得するに至り、邦枝完二の「おせん」や「お伝地獄」で挿絵画家としての名声を確立する。本展では邦枝の「喧嘩鳶」を始めとした新聞連載小説の挿絵を実際の新聞(切り抜き)で展覧する。

Ⅲ.【雑誌の挿絵】
 小村雪岱が挿絵画家として最も活躍したのは大衆雑誌であった。雑誌『キング』の創刊と成功に多くの出版社が続き、活躍の場はひろがっていった。そして当時〈雪岱型〉と言われた独自の画風〈雪岱調〉をもって、髷物まげものといえば雪岱という評価が定着する。本展ではこれら大衆雑誌を数多く展示し、肉筆画とは異なる印刷された描線とその画風の変遷など、複製芸術家小村雪岱の世界を当時の読者たちと同じように体感してもらいたい。

Ⅳ.【九九九会の仲間たちの装幀本】
 雪岱も会員である泉鏡花を中心とした会合〈九九九会〉きゅうきゅうきゅうかいは、鏡花と気心が知れた仲間たちでとりおこなわれていた。読み方は「きゅうきゅうきゅう」会、その「会の名は会費が九円九十九銭なるに起因する」と鏡花が語っている。大正は鳥屋「初音」、昭和は料亭「藤村」を主な会場としており、会員は雪岱の他に岡田三郎助、その妻八千代(大正のみ)、水上瀧太郎、里見_、久保田万太郎が名を連ね、昭和になると鏑木清方、三宅正太郎の二人も入会した。九九九会々員たちの著書の装幀も雪岱は一手に引き受けており、ここでは鏡花人脈を通してもひろがっていた雪岱の装幀世界を見渡してほしい。

Ⅴ.【資生堂意匠部】
 資生堂は大正6年(大正5年とも)にデザイン部門として意匠部を設立する。経営者の福原信三は「日本調」のデザインを求め、これに応える形で大正7年に入部したのが小村雪岱だった。大正12年までの在籍の間には、『銀座』の装幀や挿絵、雑誌の大正期『花椿』や『オヒサマ』の挿絵、冊子『化粧』の表紙絵などを手がけている。さらに雪岱が資生堂に残した最も大きな仕事は、現在も続く資生堂独自の書体〈資生堂書体〉の源流として〈雪岱文字〉を持ち込んだことだ。

Ⅵ.【大衆小説作家の装幀本】
 昭和に入ってからの小村雪岱の装幀の仕事は、挿絵画家としての仕事と連動する形で邦枝完二や長谷川伸、子母澤寛、村松梢風ら大衆作家たちの割合が増えていく。その一端を担っていたのが島源四郎の新小説社だ。島が新小説社を立ち上げた際に雪岱は推薦文を寄せており、島は出版第一冊目である長谷川伸の『段七しぐれ』の装幀を雪岱に依頼し、雪岱はミニマルな線描の見事な装幀で応えている。

泉鏡花『日本橋』千章館、1914年
鏑木清隆『銀砂子』国文堂書店、1934年
「喧嘩鳶」『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』、1938-39年

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